山の端も 流れる雲も 茜いろ
なんと静かな 秋の夕暮れ
「火の国」に広がる心の風景や「忘れえぬ人々」 への呼びかけを綴った notebook です
柳の寝言
浮世の詩
ままにならぬは 浮世の定め (注1)
矩を踰えず (注2) は 浮世の訓え
踰えていくのは 浮世の慣らい
進む道には 浮世の情け
生きる門には 浮世の縁
仰ぎ謳おう 浮世の詩を
(注1) 大正時代の流行歌「籠の鳥」より
(注2) 論語より
空蝉の声
にぎやかな おしゃべり蝉に 寂を聴く
今年(令和4年)は、早い梅雨明けとともに猛暑に見舞われ、7月5日に初蝉の声を聴いた。木立を仰ぐと、溢れんばかりの蝉の声が降り注いでいる。囁き合うもの、大声で語り合うもの、いろいろな声で、それぞれの時間をおしゃべりで過ごしている。この賑やかなおしゃべりも、突然、申し合わせたかのような静けさに変わる。暫くすると、また元のおしゃべりが始まる。この繰り返しである。新たにおしゃべりに加わるものもいれば、語ることを止め去って行くものもいる。空蝉は、世の鏡のようである。蝉の声を聴き、浮世を問い訊ねてみるのも良い。昔は、蝉時雨の中に踏み入ると、“夏だ”海に山へと遊び心に火が付いたものだ。今でも、友人と過ごした遠い日のキャンプファイヤーへの思いを巡らせながら、流行のソロキャンプに向け心が動いている。
落 葉
紅葉と落葉の季節が来ると、過ぎ去った日々を思い浮かべてしまう。高校生の頃だっただろうか、ヴェルレーヌの“落葉”(上田敏訳詩集 海潮音)は、心に沁みる思いを抱かせてくれた詩の一つである。無骨ながら、自分流に落葉を表現してみた。
色変えて 散りゆく君に 泪する
移ろう我も また落葉かな
秋の夕暮れ
”秋の夕暮れ” は、心を絞るような寂しい思いを呼び起こす。百人一首で ”秋の夕暮れ” を歌った三首もまた同じである。一方では、心を膨らませてくれる ”秋の夕暮れ” もある。夕日に映える山や雲は、自然の中に生きる喜びを与えてくれる。
山の端も 流れる雲も 茜いろ
なんと静かな 秋の夕暮れ
引力と斥力
白秋は、「他ト我」の中で、一人になることの淋しさを詩っている。
二人デ居タレドマダ淋シ、
一人ニナツタラナオ淋シ、
シンジツ二人ハ遣瀬ナシ、
シンジツ一人ハ堪エガタシ。
人とのふれ合いを欲する心があれば、人とのふれ合いを避けたい心もある。なんと、わがままなことか。周りに居る人だけでなく、そこに居る自分にすら憂鬱さを感じることもある。白秋の詩にある“二人”と“一人”入れ替えてみると、その心が見えてくる気がした。
これは 勝手な放談である ご容赦を
一人デ居タレドマダ淋シ
二人ニナツタラナオ淋シ
シンジツ一人ハ遣瀬ナシ
シンジツ二人ハ堪エガタシ
斑鳩の里
世の中の様々な事象が、互いに独立してゆっくりと流れているとき、それらの偶然の出会いに私たちの心は動かされるものです。何気ない出会いには、心を潤してくれるものがあります。子規の詩もそうです。
“柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺“
しかし、それらが互いに絡み合って動く世界では、子規の詩も、味気ないものになってしまうでしょう。
柿食わな 鐘も鳴るまい 法隆寺
遠浅の海
啄木は、生き抜くことの淋しさを詠んだ詩人の一人だと思う。詩集「一握の砂」の冒頭の詩 “東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる” は、あまりに有名で、時代を超えて多くの人の心を動かし続けている。
淋しさにも、人を慕う淋しさ、昔を偲ぶ淋しさ、孤独への淋しさ、自然の静寂に導かれる淋しさなどがあるように思える。有明海に広がる遠浅の干潟に見える人影が、不帰の人と重なり、生きていくことの淋しさを感じた。
“火の国の 歩みを映す 有明の
遠く干潟に 人影を追う”
天国より地獄
久しぶりに会った友人は、胸に白字で “毎日が地獄です” と大きく描かれた黒のTシャツを着ていた。そのインパクトの強さに少々驚かされた。二人で昼食を取りに食堂に入ると、それを見た店のオバサンが、即座に反応した “私たちも毎日同じよ 頑張ろうね!” 彼を励ましてくれた。その後、暫く車を走らせ、田舎の道沿いにある商店に入ると、店のお婆さんが、彼に一言 “間違っても天国へ行かないように気をつけてお帰り”。胸に掲げた文字通り、天国より地獄を生きる道を勧めてくれた。洒落た思いやりのある声かけである。ところで、彼に “何故そんな無粋とも思えるTシャツを着ているのか” と尋ねると、“単に、別府の地獄温泉巡りの旅土産” だそうだ。
deadline
締め切り (deadline) に追われ続けた日々に別れを告げ、deadline のない世界への相転移を定年と呼ぶようですが
締め切りに 追われ成したる 日々を超え
行くぞ我が身の deadlineへ
一服 独り言
やるせなさ 積もり募るは 秋の夜話
還暦も 古希も祝いは 独楽あそび
2020年12月31日 年の瀬の時事川柳
最高値 株とコロナが 競い合う
ゴテゴテと コロナ五輪へ おもてなし
(後手後手と コロナ五輪へ 主手無し)
“昔の心” ”今の心” 心の違いを漢字で表してみました。
一つ終え 二つ終えても まだ尽きぬ
昔の心 惜しむ念いよ
蕪村の句は心地よい
春の海 ひねもすのたり のたりかな
春の草原に寝そべりゆったりと若草を食む牛の群れを眺めていると、蕪村の詩を模したパロディに辿り着いた。
春の日も ひねもすのらり くらりかな
これは、我が身への自戒である
劉希夷の嘆く“黄昏に鳥雀の悲しむ”過去を振り返るより、
“有明に鳥雀のさえずり”を聞く日々を愉しみたい。
火の国の海
火の国の裾野に広がる天草の海への思いを綴っています
火の国に 出づる不知火 燃ゆる海
夕焼けに 燃ゆる火の国 西の方
活きる海
日が沈むまでには少し時間がある。海辺には、緩やかな潮風に加えて真夏の蒸し暑い熱気が残っている。釣りができそうな波止を見つけ、とりあえず、腰を据えて釣りを始めることにした。ここへの釣行は初めてである。釣り場はどこでも良く、とにかく天草へ釣り糸を垂らしにやって来た。この場所で、何が釣れるとの知識も無く、何を釣りたいという目的があるわけでもない。ここで足を止めたのは、ただ、波止に人影が無く、有明海を広く見渡せる開放感を感じたからである。今回は、火の国の逍遙の旅であり、釣りが目的ではない。とは言え、釣り人としては、何かしら釣果を望んでいた。波止の上の釣り座は、海面から高い所に位置している。そこから竿先を通して繋がる浮きを見下ろすと、もう視野が狭くなり周りが見えなくなっている。“今、天草で釣りをしている” という満足感に浸りながら、波に揺られる浮きの動きを見つめていた。全くアタリの無い時間が過ぎ、山の端に陽も落ち始めて少しは涼しさを感じ始めた。遠くの海は、まだまだ暑苦しそうに夕日を照り返し、ギラギラと細やかな点滅を繰り返している。浮きから目を移し、一服しながら周囲を見渡してみる。誰もいなかった波止に、お婆さんと、そのお孫さんらしい女の子の姿が見える。夕涼みかなと思いながら、また浮きを見下ろし始めた。すると、“こんにちは” とお婆さんに声を掛けられ、思わず、頭を下げて “こんにちは” と返していた。天草では、見知らぬ人との出会いに、必ず挨拶がある。先に挨拶できなかった自分に多少なりとも後ろめたさを覚えた。その後、お婆さんは、私の釣り座の横にしゃがみ込み、私の釣りというより、遠くの海を無言で眺めていた。しばらくすると、お婆さんが、ふと独り言のように身の上話を始めた。釣り人に話しかけるときは、釣りの話から入るのが普通である。しかし、お婆さんの話は、“お爺さんを迎えに来たの” から始まった。釣りには、全く無関心のようである。私は、その一言から始まった説話のような長い話に相づちを打ち、また、時には首を振りながら聞いていた。始めのうちは、浮きの動きを注視している自分がいたが、気付くと、話の世界に引き込まれてしまっていた。今となっては、その長い話の本流はともかく、そこに流れ込む支流の流れまでは記憶に残っていない。老夫婦は、複雑に変化する川の本流を下り、河口に辿り着いた。二人がその先に進んだ道は、活きる海に通じていた。市内で教師をしていたお爺さんは、退職後、お婆さんと天草に移住し、憧れの漁師生活を始めたらしい。俗に言うIターンである。お爺さんは、毎日、大物の鯛を夢見て漁に出る。お婆さんは、高値の付く中型鯛の釣果を期待している。大物の鯛の値は安く、船のオイル代にもならないらしい。今は、夏休みで孫が遊びに来てくれているが、お爺さんは大物に掛ける漁を休まない。お婆さんも、漁船の見送りと、迎えを欠かさない。それぞれの思いに思いを掛けている。
話に聞き入っている間に、陽は沈み、遠くには薄赤い色の海が広がっていた。波止の周りには、まだ明るさが残っているが、港を囲む山肌には、黄昏が迫っている。すると、女の子は、挙げた両手を大きく左右に振りなが波止の上を駆け出した。お婆さんは、“ああ、やっと帰ってきた” と言いながら腰を上げ、女の子の後を追うように船着き場の方へゆっくりと帰って行った。まさに、趣の異なる二人の「老人と海」注 を見る思いだった。
(注):「老人と海」ヘミングウェイの小説
湧水の流れ
いつものように、彼は、和やかに自身を語り始め、酒が進むにつれ話題は、浮世の流れへと移っていく。ここらが、彼の活性度に変化が出始める頃であり、仕舞いには酔い潰れてしまう。ここで、彼の酔いが覚めるまで間、独り煙草片手に冷酒を楽しむ時間が訪れる。しかし、その夜は少々状況が異なっていた。それ程親しい仲ではないが、旧知の友が同席していた。その人も私も、彼の話の聞き役に徹しており、それほど酔ってはいなかった。二人の間にはこれと言った話題も無く、共有できる昔話を肴に、静かに酒を酌み交わしていた。話が途絶えかけたとき、その人は、おちょこに酒を注ぎながら、「トロッコ」(注)に乗った少年と重なる思い出話を始めた。「トロッコ」に憧れた少年は、夢叶い「トロッコ」に乗り、走り去る風景に心の高まりと湧き上がる興奮を覚えた。日が傾き始めるにつけ、孤立感と家路への不安から焦燥に駆られる。家に帰り着いた少年の心には、安堵感と満足感が溢れていた。ここからが、その人の擬似「トロッコ」談である。未だ足を踏み入れたことの無い未知の場所への憧れは誰にもある。まだ見ぬ世界へ、一人で踏み込むには、きっかけと勇気が必要である。まだ小学6年生だったその人は、朝から自転車をこぎ一人で江津湖に向かった。そこは、湧き水が水源となり、透明な水面に水草が群生した浅瀬の多い小さな湖で、子供達には絶好の遊び場である。そこから流れ出る水は、加勢川の流れとなり、その後、緑川と合流して有明海へと流れていく。江津湖に沿って続く地道の脇には釣具屋と貸し舟屋が数件並んでいた。少年は、釣具屋の前で足を止め、店の日除け代わりに立てかけられた釣り用の竹竿を眺めていた。ふと、地道を挟んだ湖側に目をやると、借り手も無く無造作にヒモで繋がれた古びた貸し舟が目に留まった。すると、店のおじさんが、“ボウズ20円で貸そうか”と声を掛けてきた。“チャンス到来”今では考えられない光景である。その瞬間、その人は、“貸して!”と応え、新たな世界へ一歩踏み出したそうだ。初めての冒険、しかも一人である。その舟は、もとより浅瀬の多い川を進むため舟底は平らで、いわゆる高瀬舟と称される類いのものである。舟には長い竹竿が一本置いてある。これで川底を突いて舟を操るのだが、勿論、少年にはうまく進める術も無い。両手で握りしめた竹竿を右へ左へと突き替えしている間に、舟は浅瀬に乗り上げてしまった。バランスを崩さないように舟底に足を踏ん張り、竹竿に体重を乗せながらいくら川底を押しても、底の平らな舟は動かない。むしろ、竹竿はどんどん泥沼にめり込んでいく。進むことも戻ることもできず、身動きの取れない自分に苛立ちと不安を覚え始めた。途方に暮れたその少年は、“ここは浅瀬じゃないか”と自分に言い聞かせ、ついに舟を下りて舟を押すことにした。水の中に入ると、川底のぬかるみに足が少しずつ沈んでいき、例えようのない怖さを覚えた。両手で船縁をしっかりと握りしめ、体を舟に寄りかけながら足を持ち上げると、舟は浅瀬から動き始めた。少年は、やっとの思いで浅瀬から脱出することができた。舟を降りたとき、「トロッコ」に乗った少年にも似た、不安から安堵感への昂ぶる心の動きを感じたそうだ。暫くすると、その動揺は、充実した達成感へと変わっていった。この体験は、青春の舞台を加勢川に移し、高校生になったその人をボート部へと導いた。ナックルフォアのバーサイドに座し、水の上を滑走するボートから、他の漕ぎ手と呼吸を合わせてオールで水を切る。すばやく曲げた足を蹴りながら握りしめたオールを力強く胸元へ引き寄せる。全力で走りながら、見えているのはオールの先だけである。ボートの進む先は見えない。ボート漕ぎが、人生に例えられる所以である。その人は、社会人としての生活が落ち着き始めた頃、趣味のカヌーを始めたそうだ。緩やかな川の流れに身を任せ、蛇行する流れでは、前に突き出した両手でパドルを左右に操る。先の見えない青春時代のボートとは異なり、前向きに座るカヌーは、進む先がよく見える。重ねた歳の恵みだろうか。川面から見渡す爽やかな自然との四半世紀を超えた再会である。この頃、水の舞台は、木津川や熊野川へと移っていた。人の心には、歳を重ねる毎に帰趨本能が働くようで、その人の思いも又、江津湖から加勢川、緑川、そして有明海へと繋がっていた。定年を数年後に控えたその人は、船舶免許を取得し有明海を自走することを夢見始めた。当然、有明海に浮かぶ天草で免許取得を果たしたそうだ。幾度か小型ボートの練習を重ねた後、ついに念願の有明海での自走にこぎつけた。江津湖での冒険から始まった少年の夢は、湧水の流れと共に、半世紀を超えて「活きる海」有明海へ辿り着いた。その人は、おちょこに満たした酒を一気に飲み干すと、“それぞれの人生が「トロッコ」なんでしょう”と笑いながら言った。まさに、その人と私は二重の鏡面対称のようである。そろそろ、酔い潰れている友人が目を覚ます頃である。私も夢から覚めて現実に帰るとしようか。
(注)「トロッコ」芥川龍之介の短編小説
玄鳥去
玄鳥去 on 25th of September, 2021. 今朝は、ツバメの姿が見えない。普段は10羽程のツバメが周辺を飛び交っていたが、最近10日程は、数十羽の群れで集まっている様子が見られた。そろそろ、南に向け飛び立つ時期が来たなと感じていた。今日がその日だったようだ。南に向かったツバメは、年が明け、春を迎える頃には、また同じ場所に戻ってくる。なかには、帰って来ないツバメもいるだろう。ここでは、南に向かい、その後、日本とは方向の異なる北に向かって歩んだ “ある人” のことを記しておきたい。
その人は、1960年代後半の大学紛争の渦中にあったキャンパスを離れ、横浜から貨物船で当時戦時下のベトナムへ渡った。そこから始まった旅は、生きるための労働を重ねながら、目的もなく西へ進み、インド、イランを経てトルコに到着した。ここで、労働者仲間の助言もあり、北欧の地を目指すことを決意したそうである。ここまでの道程だけでも、想像できないほどの苦難の連続であったと思われるが、その詳細は語ってくれなかった。目的を決めた後は、北への移動に必要な資金を得るために励み、ついに南の国から極寒の北の国へ到着した。過去を振り返らない、青春をかけた歩みである。その人とは、初めて訪れた北欧の都市で、いくつかの偶然に導かれた出会いだった。
ヘルシンキでの仕事を終え、次の仕事との合間の休暇を利用した旅は、一晩かけて暴風雨のバルト海を渡ることから始まった。ストックホルムの港に到着したとき、幸運にも晴れ渡った穏やかな町が迎えてくれた。6月の北欧は、緯度の低い地域でも夜の時間が極端に短い。このため、一日が長いと言うより、一日の終わりが分かりにくい。この地では、久し振りに日本食を食べようと決めた。早速、ホテルに備え付けの観光ガイドで日本料理店を探し、地図を片手に一時間ほど散歩がてらに歩いた後、目的の日本食レストランに辿り着いた。店に入ると日本人らしい主人が、鋭く無愛想な目つきで一瞬私を見て何も言わずに、また下を向きまかないを続けた。夜の8時頃だが、私以外の客は数名だろうか。とりあえず、案内されたカウンター席に座ると、配膳を担当している女性が、たどたどしい日本語で“いらっしゃい”と言いながらメニューを渡してくれた。寿司の盛り合わせと熱燗一本を注文し、配膳までの間、静かな異国の日本料理店の雰囲気を愉しんでいた。暫くすると、主人は、相変わらず無言のまま、視線はこちらを見据えながら、カウンター越しに寿司と酒を手渡してくれた。久し振りに、ゆっくりと時間を掛けて日本酒をきいた。1本目に少々モノ足りなさを感じて2本目を注文したとき、主人が初めて口を開き、“あんた日本人かい” と尋ねてきた。私にしてみれば、‘見れば分かるだろ’ と言いたかったが、そこは我慢して “そうです” と応えた。それだけの会話で話は終わった。店には数名の現地の人の出入りがあり、日本食を楽しんでいるようである。客の出入りも一段落して手が空いたのか、主人は、“おれは日本人が嫌いだ” と唐突に語りかけてきた。この店には当地に駐在している多くの日本人が食事に来るそうだ。彼らは、やたら主人に話しかけ、自分のステイタスを語りたがるそうである。主人曰く、“組織を背に語る人間は嫌いだ” と。更に続けて、“あんたは2時間ほどここに居るが、俺に声も掛けない珍しい客だ” と。私にしてみれば、食事と日本酒が目的であり、あえて、無骨な主人と話をしたいなど思いもしなかった。すると、主人が少し口調を和らげて、“そろそろ静かな日本人が来るから、時間があるなら、待ってな”と言い放った。主人の言葉に従うつもりはなかったが、2本目の酒を楽しむ時間は必要だった。主人が突然 “いらっしゃい” と叫んだ。主人の人格が急変したようである。「待ち人来たる」かな!その客は、私の隣に座り、これまた無言で独り日本酒を愉しみ始めた。どちらから声を掛けたか記憶はないが、いつの間にかその無口な客と意味の無い会話を交わしながら、和やいだ雰囲気の中にいた。そのとき、店の主人が理解し難い言葉を投げかけてきた。“他に客もいないし閉店だ 続きは、俺の家でやろう” 主人にとって、無口な客はともかく、私は一見の旅人である。この申し出を断るべきかどうかと考える間もなく、主人は続けた “あとでホテルまで送るから、さあ行こう”。多少の不安を感じながらも、3人で主人の家に向かった。1時間程のドライブの後、森の中に建つ家の一室で静かな飲み会が始まった。部屋には、愛嬌のある大型の北欧犬も同席してくれていた。取り留めも無い話しを終え、早朝4時頃ホテルに帰った。後で知ったことだが、主人が他人を自宅に招いたのは、これが初めてだったらしい。酒も抜けきらない昼前に主人から電話がかかってきた。“今日は店を休むから、夕方から街に出よう” との申し出を受けた。親切な話だが無茶な話でもある。良くも悪くも、初めて訪れた土地での大半の時間を店の主人と過ごす羽目になってしまった。人の思いに寄り添うことは、何にも代えがたい人の道である。翌日、その地を離れ、次の仕事に向かう折、主人は駅で手を振って見送ってくれた。“縁は異なもの味なもの” と言うが、まさに、その人との出会いと、その後の交流は、人の様々な “生きる思い” を教えてくれた。その人は、日本人が嫌いではなく、自由を語れる人との出会いを求めていたようだ。
日本を離れ、南に向かい、北欧を目指したその人は、久遠の道を歩み続け、再び日本へ帰ることなく、50年以上その地で暮らし続けている。
補足:令和4年9月21日 昨日から、ツバメの姿を見かけなくなった。今月初め頃から数十羽のツバメが群れをなして飛行訓練を続ける様子が見受けられた。19日の夜、台風14号が関西北部を通過し、その後の北風に乗って南へ飛び立ったのだろうか。今年は、昨年より5日程早い旅立ちであった。毎年、彼岸に合わせるかのようにツバメは旅立って行く。思えば、当地へのツバメの飛来もまた彼岸前の3月15日であった。暦を先取りしたかのように、規則正しく生き続けるツバメの忍耐強さには、頭の下がる思いである。
四季の移ろい
飛んで来ては去って行く桃李の花の移ろい(注) に倣い、これまでの歩み、これからの歩みへの思いを、巡り来る四季になぞらえて自由に綴ってみました。
(注):劉希夷 “代悲白頭翁”
春の芽吹き
断ち枝の 節に寄り添う 梅の花
日溜まりに 芽吹き微笑む 梅の花
桜の底力
温もりに 桜芽生えて 一分咲き
春雨に 一寸足踏み 九分桜
今を見よ 我満開の 山桜
足早に すまぬすまぬと 散る桜
咲くもよし 永久の桜よ 散るもよし
誰が知る 散った桜の 心意気
今に見よ 見上げる空に 葉桜を
今に見よ 大地を跨ぐ 根桜を
時を超え 生きる桜の 底力
真夏の太陽
真夏に生きる 太陽は
ただ一条の 道を行く
朝霧かすむ 山の端に
顔を見せるや 足早に
隣家の屋根を 飛び越えて
暑い空へと 跳ね上がる
地熱のように 湧き上がる
積乱雲を 赤く染め
熱気と闇の その中へ
日の出目指して 走り去る
夏の風景
緑濃く 青いっぱいの 夏は来ぬ
身をかがめ 仰ぎ木立に 蝉を追う
火の国の 空に跨がる 天ノ川
夏の海 暮れて流れる 天ノ川
西海の 夏の夜空を カンバスに
影絵を描く 神々を追う
天草灘に面した景勝地、白鶴が浜
にぎやかな 夏の夜空の カンバスに
星が絵を描く 白鶴が浜
阿蘇の原野を覆う満天の星空の下、キャンプファイヤーを囲む歌声に思いを寄せて
星空を 焦がす炎に 顔を染め
皆で歌おう ”家路” の調べ
頭上を覆い尽くす天の川と散りばめられた満天の星空に抱かれた阿蘇の原野。そこに立ち、キャンプファイアーで歌った曲が、「家路」です。その素朴でゆったりと流れ続けるメロディの広大さに圧倒された自分を忘れることはできません。
”家路” ドボルザーク「新世界」第2楽章より
魚も子も 跳ねて梁瀬に 水しぶき
ヒグラシの声
あなたは 蜩の声を 聞いたことがありますか
寄せては返す 渚の波のように
繰り返し 繰り返し 語りかけては
寂しく消えていく あの声です
絶えることなく 呼びかけてくれる あの声です
無情を伝えてやまない その声は
薄暗い森の奥から流れています
目を閉じていると 見えてきます
白衣緋袴の巫女さんが 手招きするように
ゆっくりと 神楽鈴を振っています
幾重にも重なり合った鈴の音は
蜩の声のようです
火の国の友に宛てたメール
「‥‥ところで、火の国でヒグラシは鳴いていますか?私の遠い記憶では、その地でヒグラシの鳴く声を聞いたことがありません。初めて、その声に出会ったのは、比叡山の山中だったような気がします。最近は、静かに人の気持ちを引き込んでいくかすれるような声が、毎朝夕、平群の里に届いています。来週は、深い記憶の彼方に、一時とはいえ、立ち帰ることのできる機会を、楽しみにしています。」
秋の太陽
寝起きは遅く 緩やかに
静かに朝を 迎えつつ
人目を避けて 控えめに
青いお空の 端を行く
広いお空は 澄み渡り
色づく山も 映え映えと
暮れゆく時は 寂しさを
心に残し 夕映えに
明日への希望 募らせる
長々し夜を ありがとう
初秋の路傍
ツクツクと 法師も口説く 彼岸かな
彼岸花 彼方彼岸(悲願)の 道しるべ
過ぎし日を 包む姿の 彼岸花
巡り来ぬ 刹那路傍の 彼岸花
夕焼けの 炎を煽る 流れ雲
冬の旅
有明の かなた干潟の 人影に
暮れ行く歳の 潮は満ち来る
一条の 轍に標るす 大晦日
諸人の 願いを肩に 初日の出
冬枯れの 木立の丘に 一瞬の
夕日に染まる 温もりのとき
雪の傘 かざし微笑む 紅椿
火の国を温ねて
「忘れえぬ人々」や「忘れうる人々」とのつかの間のふれ合いを求め、時には遠い記憶を温ねて訪れた火の国の思い出を自由に綴ってみました。
下の写真は、南小国町にある鐘ヶ滝です。流れ落ちる御簾のような滝の裏側から、別世界に映る現実の美しい風景を愉しむことができます。
草枕の里
漱石の夢に惹かれて 草枕の里 小天を 幾度となく 訪れてみました
小天には草枕交流館があります。そこでは、漱石と小天の歴史的な繋がりをビデオや資料を交えて丁寧に説明してくれます。交流館周辺の散策も加えて、大変興味深い一時を過ごすことが出来ます。漱石が逗留した前田家別邸跡に残されている浴場は、古代ローマの浴場(テルマエ)を想起させる石造りで、草枕の一場面を呼び起こさせるに十分な佇まいです。
小天にも テルマエありき 漱石も
ほんに温もる 智情意の里
注記:草枕の一節 ”智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。”
名湯百選の湯
名湯百選の一つ垂玉温泉を火の国の友と訪れてみました
過ぎし日を 語る片手に 杯を持ち
明日を見据える 火の国の友
滝壺の しぶきを覆う湯煙に
温もる谷の 木の葉色づく
垂れ落ちる 滝のしぶきか 湯煙か
覆う谷間に 温もりの宿
追記:明治時代初期から続く垂玉温泉の老舗山口旅館は、先の熊本地震(2016年)で甚大な被害を受け、その後休業されています。2021年春に、日帰り温泉 瀧日和 として再建されたと聞いています。多くの文人が愛した旅館再開への道程は長くとも、いつの日か金龍の滝を仰ぎ見る姿を待ち望んでいます。
さん君の呼びかけ
火の国の友は、同級生の呼びかけに敬称を付けます。女の子には “さん” を、男の子には “くん” を付けます。例えば、女の子の佐藤さん! 男の子の鈴木君! 当然、一部では名前で呼んだり、あだ名で呼んだりすることはあります。敬称無しの呼び捨ては、普通は御法度です。上級生に対しては、男女の区別無く “さん” 付けで呼びます。下級生に対しては、同級生と同じ扱いです。この火の国の友の習わしは、小学校から高等学校まで続いていました。勿論、敬称の有無や呼びかけ方は、地域によって異なりますし、同じ地域でも世代と共に変化していくものです。しかし、“さん・くん文化” を共有した地域と世代の中で育った者には、その時代の記憶が頭の奥深くに残っています。五感で得た全ての経験や知識は、頭の中の記憶ユニットに保存され消え去ることは無いと思います。ただ、普段の生活の中で そのほとんどの記憶は眠ったままです。思い出を呼び起こすためには、きっかけとなる引き金のようなものが必要です。それは、故郷の訛りや風景であったり、生活を感じる食事や町の匂いであったりします。“さん・くんの呼びかけ” は、記憶ユニットに眠っている思い出を頭の中央処理ユニットに送り、その記憶を現実の世界に導く役割を果たしているようです。その呼びかけにより掘り起こされた記憶は、私たちを瞬時に過去の世界へタイムスリップさせてくれます。過去と現実が一つになる瞬間です。固有の文化を共有した人々の間には、時代を越えて働く引力のようなものがあります。
皆さん 君の呼びかけが聞こえてきます
集い来る菊池渓谷
還暦同窓会に参加した後、菊池渓谷(黎明の滝)を訪れてみました
同窓会では、懐かしさだけの感傷に浸ること無く、皆の前向きな姿に刺激を受けました。それぞれが、新しい生き甲斐を求めて集まってきていたように思えました。「自分自身の生き甲斐を求めてみよう、そうすれば自ずと自分の歩む道を知るだろう」と勝手に思っています。正直、まだ道は見つかっていません。昔のTVコマーシャルで「諦めてはいけない君の人生 最後まで走り続けなければ ゴールは見えない」と語っていました。でも、今まで走り続けたんだから、ここらで、ゆっくり歩いてみるのも良いでしょう。一途に走る、そして、歩きながら考える。今は、その時だと思っています。何事にもメリハリのあるインターバルは必要でしょう。
集い来る 水は源 湯は菊池
祝う還暦 火の国の友
渓流を 覆う木立を 漏れ落ちる
光の帯に 露もきらめく
カシやエゴ 重なる老木 通り抜け
照らす光は 湧水の滝
くじゅうの長湯
火の国と連なるくじゅう連山の裾野に佇む大分県・長湯温泉を訪れてみました
日が落ちて、周りがすっかり暗くなった山間の宿の食堂では、数少ない宿泊者が、それぞれの時間を愉しみながら配膳を待っていた。厩舎のように柵で区切られた4つの横並びの仕切り席がある。その片側は、外の木立の騒ぎを影絵のように映し出しているスリガラスの窓であり、他方は一段低い土間になっている。土間の先は、暗くてよくわからないが、外に通じているようだ。土間を挟んだカウンター席には、誰もいない。私は、壁を背にして他の席を見渡せるように座り、杯を片手にその場の雰囲気に浸っていた。隣には、うつむき加減に無言で雑誌を読む老夫婦が、一つ空けた端の席には、二人の老婦人が静かに歓談しながら座っている。その人の表情は見て取れても声は伝わってこない。何ともゆったりとした時間である。宿泊者が集う部屋に流れている音楽は、つながりの無い低い音の重なりである。それらは足下にまとわりつきながら、静かにゆっくりと床の上を漂っていた。さながらセピアカラーに包まれた「終着駅の待合室」のようである。少々酔いも回ってきた頃、土間の奥に座っている一匹の犬に気づいた。身動きもせず、部屋の様子をじっと見つめている。仕付けの良い犬と思いながら、食事も終え、部屋に戻ることにした。階下にある私の部屋への階段を降りると、暗い廊下が横たわっている。廊下の横は大広間になっている。長い間使われていないようで、部屋の隅に机や座椅子が雑然と重ね置きされている。大広間にも廊下にも人気も明かりもない。廊下の端にある扉の上の裸電球が足下を長楕円形に寂しく照らしてくれている。この雰囲気は、この歳になっても気持ちの良いものではない。部屋に通じる扉を開けると、その先は土間になっている。土間の両側から吹き込む冷たい風を感じながら、私の部屋に落ち着いた。残念ながら、もう一度同じ道を歩む勇気が無く、部屋を出て風呂に行くことを諦め、寝ることにした。
昨夜来の風の音に変わって、屋根を叩く雨の音で目覚めた。十分ではないが、すっかり闇から解放されている。もう、安心して長湯温泉の朝風呂を愉しむことができる。長湯に浸かった後、昨夜と同じ食堂へ朝食に向かった。他の宿泊客は、朝早く立たれたのか、配膳係のおじさん以外誰もいない。食堂の中の静かさは昨夜と同じだが、今朝は格段に明るい。セピアカラーがブルーに変わっている。少々失礼な話だが、部屋の雰囲気は、電灯の明るさだけでなく、そこにいる人々の趣によっても大きく変わるようだ。今朝は、周りがよく見える。昨晩、土間の奥から座視していた犬は、陶器の飾り物と気づき、苦笑してしまった。
一服 火の国へ
一切れで飯三杯の底力を持つ奈良漬を、独り身の火の国の友へ送り
奈良漬と 唯一善の 飯を盛り
一献潤す 火の国の友
故郷は 親兄弟も 友もよし
過ごす一人の 時もまたよし
悩み多い10代の終わりの頃の詩で、今も頭の片隅で生き続ける思いです。
おだまきの 林に惑う 心地して
色も褪せにし 折節の冬
大阿蘇の 五岳に立ちて はらわたの
避けるがごとく 叫んでみたい
言いたい放題
空行く雁の無心(注1)には届かなくとも、「月に吠える」(注2) つもりもありませんが、空を見上げて吠えてみたい心の片隅にある思いを自由に綴ってみました。
(注1):鈴木大拙 ”無心ということ” (注2):萩原朔太郎 ”月に吠える”
時間と寿命
お金があって暇な人は 時間の使い方をお金で買おうとして 寿命を浪費します
お金があって忙しい人は 時間をお金で買おうとして 寿命にもて遊ばれます
お金が無くて暇な人は 時間の流れに寄り添って生活を送り 寿命に囚われません
お金が無くて忙しい人は 時間を大切にした生活を送り 寿命を全うします
今できること
今やりたいことを 明日やろうと思うな
明日になれば やりたいことも変わってくる
今できることを 明日もできると思うな
明日になれば 今できることでも できなくなる
今できないことを 明日もできないと嘆くな
明日になれば できないことも できるようになる
今の想いを 明日につなぐな
明日になれば 心も変われば 気も変わる
今できることは できるときに成し遂げよう
チャンスの活かしかた
私たちは、長い人生の中で多くのチャンスに出会います。これらのチャンスは、すべての人に平等に訪れると思います。チャンス到来への対応は、人により様々なようです。これらを、次の5つのタイプに分類してみました。
- チャンスが巡ってきたとき、その機会到来に気づき、チャンスを生かせる人。すなわち、普段からチャンスを生かせる知識と経験を身につけている人。
- チャンスが巡ってきたとき、その機会到来に気づくが、チャンスを生かせない人。すなわち、普段からチャンスを生かせるだけの知識と経験を身につけていない人。
- チャンスが巡ってきたとき、その機会到来に気づくが、チャンスを自ら進んで捨ててしまう人。
- チャンスが巡ってきたとき、その機会到来に気づかない人。すなわち、チャンスかどうかの判断ができない人。
- 非常に希なケースですが、チャンスを自分の力量で創り出し、それを活かす人。
人により、目指すタイプは異なると思います。
タイプ1は、私たちが求める理想的な人でしょう。
タイプ2は、有意義な生活を送ることのできなかった人の行き着くところのようです。
タイプ3は、自然な流れに逆らう道を選ぶ人ですから、それなりに、人の生き方として評価できるかもしれません。
タイプ4は、論外でしょう。
タイプ5は、凡人の域を超えているので、あまり考える必要もなさそうです。
では、“機会” を生かせる知識や経験はどのようにして身につけたら良いのでしょうか。少々古くさいと言われるかもしれませんが、古代中国の有名な儒家の一人である孔子の言葉に「温故知新」というよく知られた教訓があります。この言葉は、“学びとは、先人の努力と理解を紐解くことから始め、そこから新しいものを見いだしなさい” と教えているようです。リンゴが木から落ちるのを見て万有引力の法則を発見したと言われている中世の科学者アイザック・ニュートンもよく似た言葉を残しています。“Standing on the shoulders of Giants” 巨人の肩の上に立って、いったい何ができるのかと思うかもしれません。でも、大きな巨人の肩の上に立てば、自分の身の丈から見えている視野より、遙かに遠くを見渡せるようになるのではないでしょうか。ここで言う巨人とは、後世の私たちに多くの知識を残してくれた、偉大な科学者たちのことです。その先人の教えを学び、理解し、実践することによって、私たちは、新たな知識や経験を身に付けることができるのではないでしょうか。
ホンモノに出会う旅
「ホンモノ」と「ニセモノ」を見分ける方法はあるのでしょうか。答えは、たくさんの「ホンモノ」に接することでしょう。「ニセモノ」ばかり見ている人には、真贋力は備わりません。「ホンモノ」を見ていると、きっとそれらの中に興味を持てるモノが見つかります。たくさんの「ホンモノ」に接することで、それらが持っている美しさが見えてきます。少しでも美しいと感じれば、それはもう興味を抱いたことになります。興味を持てば、そこにはたくさんの分からないことがあることに気付くでしょう。それらの疑問を少しでも解き明かしたいと思ったら、それが物事を好きになるということです。さあ、「ホンモノ」との出会いを求めて自由な旅に出かけましょう。家の中に居るだけではダメです。動かなければ絶対に出会いはありません。動かないモノとモノとの衝突確率はゼロです。いろいろな場所を訪れ、今までとは違った自然や生活、文化に触れてみるのも良いでしょう。そこには、多くの人々との出会いもあるはずです。きっと、それらの中に興味を喚起するモノがあるはずです。もちろん、興味を持つことと、それらを理解することは別の話です。興味を持てば、多くの疑問が生じるはずです。それらの疑問を一つ一つ解決できたときに物事への理解が深まり、ホンモノの知識が身につきます。続けることが大事です。継続は力になります。「ホンモノ」との出会いを求める旅に終わりはありません。
イングランドの卒業式
イングランドの大学の卒業式に参列する機会があり、その興味深い体験の一端を紹介したい。この大学の卒業式は、日本のように全学一律な催しを行わず、学科単位で行われている。従って、大学の全卒業生を送り出すため、約一週間に渡り式が続く。 招待状を提示し、パイプオルガンの演奏が鳴り響く式場に入ると、指定席へと案内された。なんとも厳かな雰囲気である。指定席が埋まると、続いて卒業生たちの入場である。学部学生・修士学生・博士課程の学生達が、それぞれ異なる色のガウンと帽子を身に纏い、順に入場してくる。その後、参列者全員が起立して、学科のほぼ全ての教職員の入場を迎える(蛇足ながら、一分の教員しか参加しない日本とは異なる)。このとき、The Maceと呼ばれる権威の象徴である儀仗を手にした先導役に従って入場する。最後に入場するのは、学長(The Chancellor)である。形式上、学長となっているが、実際には、数名の副学長が分担して、この任に当たっている。教職員が着席した後、私達も着席が許される。同時にパイプオルガンの演奏が終わり、式が開始される(蛇足ながら、学長以外の役職者や来賓の参列はない)。まず、学生の名前が呼ばれ、その卒業生は、学長の前に進み出る。学長は、学生の手を持ちながら簡単な祝辞と質問を述べる(写真は、この模様を撮ったものである)。これを、全学生に対して繰り返し行う。学長の質問内容は、「学生生活を満喫できましたか?」「勉学に励むことができましたか?」といった簡単なもので、学生は大概「はい」と応えるようだ。しかし、中には、「いいえ、不満でした」と応える学生もいるらしい。このような場合でも、学長は笑顔を絶やさない。なぜなら、二人の会話は、周囲には聞き取れないからである。学長は、卒業生全員にこの問答を繰り返すので、全てが終了するにはそれなりの時間を要する。しかし、この儀式は、卒業する者と送り出す者との連帯感を醸し出しており、時間の経過を感じさせない。式の最後に、学長が簡単な挨拶をする(蛇足ながら、式の祝辞は、この一つだけである)。祝辞の内容は、主に次の三点に集約される。第一は、それぞれの分野で学問を修めた者への祝の言葉である。第二は、新たに大学同窓会の一員となったことへの自覚を促すための言葉である。最後は、卒業生・家族へのお願いの言葉である。ここで、第二・第三の言葉が重要である。卒業後は社会の一員として努力し、卒業生とその家族は、大学への感謝の気持ちを忘れることなく、大学の発展のために寄付を行いなさいと言う趣旨である。「生涯に渡り大学で受けた恩恵に報いなさい」ということは、英国の国立大学すべてに共通した卒業式の祝辞らしい。式終了後は、キャンパスの仮設パブを囲み、シャンペンを飲み交わしながらの歓談が始まる。何とも移動遊園地のように賑やかな風景である。色々な国の人々が、お国自慢の民族衣装を身に纏い卒業を喜んでいる。このような光景は、日本の大学ではあまり見かけることがなく、非常に興味深く、グローバルな活力を垣間見る一時である。真理を伝え、探求し、次に繋ぐ大学の姿を、学位授与の催しを通して映し出しているような印象を受けた。英国で卒業式を Graduation ceremony ではなく、Congregation と呼ぶ源は、ここにあるように思えた。
米粒と鹿
以前、英国人の友人から、君は、英語の複数形の表現力に乏しいとの指摘を受けたことがある。確かに、英単語の後に “s” があろうが無かろうが、あまり気に留めたことはなかった。後日、私のこの無頓着さはどこから来ているのかを考えてみた。その原因は、遠い遠い昔の日本人と英国人の生活様式に起因しているのではないかと勝手に思い始めた。すなわち、「農耕民族と狩猟民族」の生き方の違いに因ると考えるようになった。日本人には、主食である米粒の数を数える習慣はない。半年もの時間と多くの労力を費やし、丹精込めて作った米でも、その生産量が問題で、米粒の数には関心が向かない。しかし、狩猟を生業とする人たちにとって、数は、どのような意味を持っていたのだろうか。そこに、1頭の鹿が居るのか、2頭、または、それ以上居るのかは、家族やその集団が生きていく上で、重要な情報の一つではなかっただろうか。「言語表現での複数形の重要性」は、このように「農耕民族」と「狩猟民族」の主たる食物に、その源があると思えてならない。勿論、英語にも複数形を持たない生き物もいる。これらは、羊に代表されるように人が育てるものであり、獲るものではないため、その数は大きな問題とはならない。この単純な考えは、言葉の時制表現にも表れているように思われる。長い時間をかけて食べ物を育てる民族にとって、完了形などの表現は要らない。太陽の動きを見て、適切な時期に必要な農耕作業をすればよい。一方、狩猟を主とする民族では、そのような悠長なことを言っていては、家族が生きていく道が断たれてしまっただろう。何頭の鹿が、どの場所に、いつ頃まで居たのか、今居るのか、また戻ってくるのか。これらは、鹿を捕獲するのに重要であっただろう。 このように「農耕民族と狩猟民族の差」を考えると、ついつい他のことまで考えてしまう。欧米人は、何故、食事にナイフとフォークを使うのか。部屋にいるときも、何故、靴を履いているのか。浴槽に浸かるよりも、シャワーを好むのか。答えは、獲物が現れたら何時でも狩猟行動に移れる体制を保つ為ではなかったのだろうかと。挙げ句の果ては、欧米人と日本人との挨拶の仕方の差まで、「農耕民族と狩猟民族の差」によるものではないかと考えてしまった。日本人のように、頭を下げていたら、一瞬、目の前が見えなくなる。その瞬間に現れた獲物を見逃さないためには、何時いかなる時でも、周りを見渡せる姿勢が大事なのではと、ばかげたことを思い浮かべてしまった。
アマチュアとプロ
アマチュアとプロについて少し考えてみました。
一般的には、
仕事に対する報酬の無い人はアマチュア
仕事に対する報酬を得る人はプロ
と定義されているようです。
私なりには、一般的な両者の定義に、次の評価条件を加えたいと思います。
アマチュアは仕事に対する努力が評価される
プロは仕事に対する結果が評価される
しかし、
仕事に対する報酬が無いアマチュアでも結果を出す人がいます
一方、
仕事に対する報酬を得るプロでも結果を出せない人がいます
報酬という側面からは、何となく不平等感が漂っています。しかし、「プロにとって仕事は生業であるが、アマチュアにとっては、そうではない」ことから、報酬面での不平等感は考えないことにしましょう。 では、結果を出す人とはどのような人なのでしょうか。仕事に明確な目的を持ち、結果に達成感を持つことのできる人かもしれません。言い換えれば、仕事に対する能力と充実感を持った人は、報酬の有無に拘わらず、結果を残せることになります。物理の世界では、“仕事をすることができる能力”のことを、“エネルギー”と呼んでいます。このエネルギーを持って活動する“エネルギッシュな人”は、アマチュア/プロの区別なく、実り多い生活を送ることができるのかもしれません。
人の歩み
ある人が、ポツリと言った。
「あの頃に戻りたい」
生来忍耐強いその人の言葉に、
何の配慮もなく応えてしまった。
「戻れば苦労もついてくる」
人は、自分の歩んだ足跡を、変えることはできない。
過去に戻れば、自分の轍をもう一度踏むことになる。
その道程には、楽しかったこと、苦しかったことなど、
多くの思い出が残っている。
その道を再び歩めば、そこにある全ての出会いは見えている。
喜びも 悲しみも ‥‥
全て避けることはできない。何も変えることはできない。
同じ道を歩むことの、何と残酷なことか。
新たに踏み出す道には、夢がある。
これから歩む道は、変えることができる。
これは、人の歩みの大きな希望である。
偶然の出会い
世の中に“偶然の出会い”などあるのでしょうか。偶然と思われる出来事には、それが起こるまでの過程に、その端緒となる理由があるのではないでしょうか。つまり、偶然とは、必然的な要因に導かれており、“必然性のない偶然など存在しない”と考えられます。言い換えれば、“偶然の出会い”など起こり得ないと言えるのではないでしょうか。これは、私たちの普通の感覚からは受け入れ難いことかもしれません。やはり、“偶然の出会い”があるほうが、そこには夢があり豊かさを感じます。そこで、“偶然”という言葉を“予期していない”という言葉に置き換えてみましょう。すると、全てのことが、何となく筋が通って納得できます。このブログの中でも “偶然”という言葉を幾度か使っています。正しくは“予期していない”という言葉に置き換えるべきかもしれません。しかし、“偶然”という言葉の方が馴染み易く、穏やかな雰囲気が漂っているように感じます。時には、言葉の正確さより、状況を情緒的に捉えることのできる表現の方が好ましいこともあるようです。“偶然の出会い”とは、予期せぬ出来事であり、自分の道を歩み続ける人に時折訪れる一瞬の縁ではないでしょうか。
「玄鳥去」では、“いくつかの偶然に導かれた出会い”と書きましたが、それぞれの偶然は、実は自分の思いが創り出した必然性のある結果だったのかもしれません。
“あすなろ”と“およげたいやきくん”
(注) “およげたいやきくん”:1975年に流行した童謡
活きる海に暮らす人との出会いは、締め切りの無いゆとりある生き方への夢と希望を与えてくれました。-海辺に佇む埴生の宿でのつましい生活- 目を閉じれば、“早くいらっしゃい”と手招きしながら呼び掛けてくれる穏やかな波の声が聞こえてきます。残念ながら、目を開ければ、何も変えることができない、変えようとしない自分のもどかしい姿が見えています。人の歩みが創り上げた轍には、それまでに培った多くの縁や絆が残されています。その轍の先を真っ直ぐに歩き続けることは自然な生き方なのかもしれません。しかし、その道から少しだけ脇道に逸れたら、そこには別の生き方があるかもしれません。“ままにならぬは浮世の定め”と言いますが、自分を取り巻く浮世を離れ、これまでとは異なる世界へ歩み出すことは、そんなに難しいことなのでしょうか。檜になろうと思い続けて変わることのできない“あすなろ”と、普段の生活から自由な海へ飛び出した“およげたいやきくん”の生き方にどのような違いがあるのでしょうか。真っ直ぐな道を歩み続けても、逸れた道に進んでも、行き着く先には終着駅があります。しかし、ターミナルへ辿り着くまでの過程は、大きく異なるでしょう。“あすなろ”は、募る思いの中で憧れの檜を見つめながら、変化に乏しい日々を送っています。そこには、周りの人とのふれ合いや思いやりに重きを置いた穏やかな生活があるのかもしれません。“およげたいやきくん”は、海の中を泳ぎ回り、美しいサンゴやサメとの新たな出会いはありましたが、やはり空腹には耐えられず釣り餌のエビを食べてしまいます。しかし、たいやき鉄板の上では到底叶えられない生き方を、自由な海の中で体現できています。どちらが進むべき正しい道なのか分かりません。どの道を選ぶかは、人が求める生き方に因るのかもしれません。一方、夢と現実の狭間で、憧れの生活に思いを馳せながら今を生き続けるのも一つの道ではないでしょうか。どの道を歩むにつけても、“今できること”は、できるときに成し遂げようという強い意志を持ち続けることが大切なのではないでしょうか。
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